「水滸伝」の真似できなかったところ。

拙作「伏魔伝」は、水滸伝好きが高じてその前世譚(魔星ベースの)を創作した物語です。
しかしながら、水滸伝原典の換骨奪胎ではなく、展開としてはむしろ「西遊記」に似ているところが多いと自覚しております。
有り体に言うと、西遊記も伏魔伝も「お使いものがたり」に分類されるんですね。
主人公が目上の者から難題を与えられてそれをこなしていくというもの。
特徴として、話のスタート時点で、目指すべきゴールがある程度決められている。
読者としては、それがうまく果たせるのか、トラブルをどう回避するのか、というところに視点が行きます。
最終的には、目的を果たし良かった良かったとなるか、見るも無残に壊滅するか、含むところがありながら表向きは解決、とか様々です。予定調和が主軸になっているんですね(裏切る場合を含めて)。
ところが、水滸伝はこれとは全く違う展開です。
主人公たちに、明確な目標が無い。無いに等しい。
その章の主人公である好漢は、いろいろなことに巻き込まれて流されて行きますが、基本的には自由奔放に行動している。
私としては、これが水滸伝の最大の魅力に感じるのです。
よく中国古典娯楽小説の比較として、三国志・水滸伝・西遊記の違いは?なんていうクイズがありますね。
時代背景やキャラクターの違いはもちろんですが、一番の違いは、それぞれの魅力だと思うのです。
私個人の感想で言うと、
三国志 → 国盗りの駆け引き
水滸伝 → 自由で楽しい生き方
西遊記 → 夏目雅子

拙作伏魔伝は、歴史を追うという大事な展開があったため、運命に翻弄されるお使い物語的に書きました。
これを、同じ足跡をたどりつつ、自由奔放に生きているように書き直せたら、よりおもしろいのかもしれません。
もちろん、どのような書き方が世に受け容れられるかは、時代によって様々ですから、それを狙っても仕方ありませんが、私が憧れた水滸伝の書き方にはなっていなかったと、今になって少し残念な気持ちになっていることは確かです。

とはいえ。
商業作品ではないので、また一から書き直すこともできますし。
あるいは、訳本のように、書き方次第で自由奔放タイプに見せることは可能かもしれませんね。
せっかく創った作品なので、精一杯遊んでみようと思います(^.^)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です